【精神】命の重さ

私は、今までブログで、自殺否定、戦争否定、殺人を否定してきた。しかし、実は常に頭をよぎる、超自然的な論理がある。
強烈に否定しながらも、自分では完全に納得はしていない考え方なのである。
社会と自然
「命の重さ」
これには、まず、きちんと区分けしていなければ成らない論点が隠されている。
「人間社会」と「自然」
である。
社会とは、どういうことか?
これは、今まで私が述べてきた「自殺否定」「戦争否定」「殺人否定」のことである。
つまり、家族、恋人、友人…そして殺人者と、本人(被害者)。これらの周りの人々と、本人の無念や苦悩を考えたからこそ、この論理を述べざるをえなかったとも言える。
これが「人間社会」からの論点である。
自然からみた論点
では、「自然」からの論点とはなんであろう?
ズバリ「弱肉強食」と言いたい所だが、これは実は、範囲が地球上の生命に限定されてしまう。
岩石や空気、原子や素粒子なんていうのも範囲に含めてみると、「安定」がズバリ論点と成る。
すべての「物体」はお互いに干渉しあいながら、エネルギーを相殺しあっていく。簡単に言えば、水が低いほうに流れ、安定しようとする。空気は、気圧の高い所から、低い所に流れ、均一になろうとする。宇宙は膨張し続け、限りなく均等に、停止していく。
少し論理が飛びすぎていて、余りにも分かりにくいので、生命の「弱肉強食」まで限定してみよう。
弱肉強食
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生命の命題を「弱肉強食」だと仮定する理由からまず考えてみる。なぜ強いものが弱いものを淘汰しなければならないのだろう?これこそが、「生命のDNA」の大命題と考えることが出来るからだ。生命一粒一粒を「個」と考えず、地上に張り付くDNAを持つすべての生命を一つの「個」と考えてみよう。
DNAは、より確実に生き残る為に、繁栄するために、自ら様々な形態を作り出し、その形態同士を戦わせ、より強固な形態にシフトしようとしている。このように考える事が出来るのである。
つまり、DNAは、自ら、自己の分身同士を戦わせ、弱い自分を捨て、強い自分に成長させているというわけだ。
無力
このように考えた時、「人間社会限定の論理」は、完全に無力になる。
善悪、ルール、良識は、全く意味を成さない。
DNAはただ、強い自分を手に入れる為にのみ活動している、非常に、また非情に純粋な存在なのだから。
人間同士の争いも、イザコザも、自殺行為も、DNAがただ強い自分を求める結果と言うことが出来るのである。
究極に考えれば、人間の思考、社会さえもDNAがより強い自分を得る為の実験の一環と捉えることも出来る。
つまり、「こういう思考回路を持つ物体ならば、より確実に生き残れる。こういう思考回路であれば、すぐに滅してしまう」という、DNAの壮大な実験場かもしれないと言うことである。
このように考えていくと、殺人は善だ悪だ、などと言う論理は通用しなくなってしまう。
善、悪ではなく、そこにはただただ、事実のみ、つまり、DNAの実験結果のみが存在するだけなのである。
宇宙は、最後は、無限に膨張し、エネルギーは完全に相殺され、絶対零度になっていき、やがて温度と言う概念も無くなっていき、原子や電子は、完全に均等になっていき、やがて、原子や電子も分解していき、完全に均等になった時、すべての概念がなくなっていくのかも知れない。こんな説もあるのである。

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弱肉強食は自然の摂理なのですが、それは反対から見ると弱いものがいなければ強いものも存在できないというのが現実。
具体例は「恐竜の絶滅」
植物が枯れ(一説には進化して)たため、エサが無くなった草食恐竜が絶滅し、それをエサにしていた肉食恐竜も絶滅。
弱肉強食という論理は一見すると強いものだけが一方的であるかのように見えるのですが、実際には弱者に依存する事で強者が成立できるという矛盾も孕んでいます。
弱者は強くなろうとし、その結果強者も強くなろうとする。
しかし常に弱者と強者という関係は成立し続ける。
徳川家康はこういう理屈がわかっていたから「民は生かさず殺さず」という名言(迷言?)を残したのかもしれません。
「DNA」は、人間の社会・文明が到達した「科学」によって発見されました。もし、人間の思考がDNAにコントロールされているのだとしたら、「思考」は自らをコントロールするものを本当に発見できるのでしょうか?
とは言え、人間・社会・自己を自然の一部として見つめなおしてみる視点は重要ですね。
>なぜ強いものが弱いものを淘汰しなければならないのだろう?
>弱い自分を捨て
この部分で、漠然と違和感を感じていたのですが、「淘汰」「捨て」、だと言葉がおかしいですよね。あえて言葉を当てなおすとしたら「進化」かも知れません。
弱肉強食についてなんですが、泡雲法師さんの一般論と、もう一つ、異なる見方が出来るんです。一般的には食物連鎖の頂点の生物を「強者」とするのですが、「物量」と「力」を同列に考えた時、何を強者とするかが、非情に難しくなります。滅してしまうことを「弱者」の条件としたとき、バクテリアだとか、プランクトンだとかが、必ずしも「弱者」になりえない。
あるいは、人間はこういった「強者」であるバクテリア等をも、宇宙空間等に進出させる為の、「道具」に過ぎないのかも知れません。
…ちょい穿った見方ですが…
…こういった穿った見方をするのは、私のご愛嬌ということで…
つまり、人間社会と言う次元で考えた時、普通に生きている時は、「殺人」「自殺」「戦争」は否定(というか、許容したくない)。次元を上げた時は、善も悪も無いという考え方です。
私がDNAを話題に出す時、「DNA=神」っぽくなってしまうのですが、そうではなくて、何か私が思いもよらない、この我々の時空の摂理なのではないかと思っています。
この時空の究極の摂理は「安定」ではないかと、現時点では思っています。それゆえ、DNAの働きが非情に奇異に見えてしまうのかもしれません。
揺らぎだとか、アソビだとか、ファジー(昔流行りましたが…)だとか、そういった部分の、この時空でなんとなく出来た「摂理」なのかも知れません。
個々の意思を考慮に入れないのならば、この世界はただエネルギーが循環しているだけ、と考える事も出来ます。
生命が進化するのも、人類が宇宙に行こうとするのも、エネルギーが行き先を求めているだけかもしれませんね。
宇宙空間も太陽熱や重力など命とは違うエネルギーが満ち溢れていますし、宇宙も含めてこの世の全てはエネルギーがひしめき合っているだけという解釈も出来そうですね。
ところで、これは反論ではなくて、ちょっと思い出しただけなのですが、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』は読まれましたか? いろいろな読み方のできる奥の深い作品ですが、「人知を超えたもの」の正体をなんともアイロニカルに描いているところがあって、考えさせられました。もし、未読でしたらお勧めです。(あらすじを先に読むことに抵抗がなければ、Wikiでストーリーが紹介されています)
なるほどなるほど、他の様々な現象も、エネルギーの循環、エネルギー保存の法則?でしたっけ?昔物理で習った…
これが基本原則ですから、DNAの働きも、その基本原則に、飛躍しながらも即している現象なのかもしれませんね。
とりあえず、古書店かどこかで探してみますね。そのもの実物を読んだ方が良さそうです。
さて、出会えますか…?
デザイン本に目が無いもので、我ながら一抹の不安を覚えますが…